照屋の宮崎スポーツblog(略称:てるスポ)
宮崎市在住のフリーライター・照屋による、宮崎県のスポーツサイト。自分の本音を添えて、リアルに伝えます。
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宮崎市在住のフリーライター。高校までサッカー、10年前までムエタイをやっていた。最近は四股50回が日課。

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MSUの挑戦 (前編)
 宮崎県の社会人サッカーは、ここ3年で勢力図が変わった。県1部リーグを6連覇していた延岡市SCがタイトルを取れなくなり、エストレーラ宮崎FCの天下も1年で終わった。
 替わりに台頭してきたのが、MSU.FCである。昨年の県1部リーグを優勝し、今年も全勝で首位を走っている。社会人選手権は全国まであと一歩というところまで行き、天皇杯は県大会でベスト4入りを果たした。ピッチ外に目を向ければ、運営のNPO法人化を実現。普及活動も始めている。
 MSU.FCとは、どういうチームで、どこに向かっているのか? 公式戦が始まる前の4月、代表兼監督の柳田和洋さんに語ってもらった。4ヶ月のタイムラグが出てしまったものの、全2回でお送りする。第1回は、チームの歴史と産経大との関係、初戦で敗れた各県リーグ決勝大会、そして柳田さんがかつて在籍したプロフェソール宮崎について。
 
門川クラブ

――まずは、チームの歴史を教えてください。2006年までは『Andiamo門川1965』という名前でしたね。

 もともとは『門川クラブ』です。1965年に創設だから、自分が生まれる前ですね。

――柳田さんが関わるようになったのは?

 自分が門川町の出身で、プロフェ(プロフェソール宮崎)を辞めたとき、小学校の頃の指導者が関わっていたから、「強くしてくれ」と言われました。日向地区の1位でしたね、2000年は。

――柳田さんがプロフェソール宮崎にいたのは、いつ頃なんですか? たしか、1999年が県の2部リーグ、2000年が1部リーグでしたよね。

 自分は、県2部のときの得点王で、谷本(信也、現:サザンクロスFC1974)と2トップを組んでました。1部に上がって、九州リーグに行く前に辞めて、それから門川を託されて。そして、プロフェの初期メンバーが7人ぐらい来ました。(チームが)信用ならなくて、出た奴らが。
 (2001年は)地区リーグからトヨチャレ(トヨタチャレンジカップ 全国クラブチームサッカー選手権)を目指して、県大会で優勝して、九州大会で3位。三宅クラブ(福岡)に負けました。出水クラブ(鹿児島)が全国で2位だったから、レベルは高かったですよ。県リーグに上がるよりも、全国に行きたかったんでしょうね。夏は、試合前に走ってから練習してました。
 社会人選手権の県予選は、2年連続で決勝まで行って、ディナモ(ディナモ都城)に負けました。0-1、1-2だったかな。オープン参加だった天皇杯は、延クラ(延岡市SC)にPK負けでした。(クラブ選手権の)九州大会は、N・S・T DREAMS(鹿児島)と当たって負け。そこが優勝しました。その年に県の3部リーグに上がって、そこから氷河期に入りました。


産経大との関わり

――2003年から県3部リーグということですね。

 3部にいたのは2年。3部に上がったときは、人がそろわなくて……。農業高校での教え子が入って、(『Andiamo門川1965』になって1年目で)3部で優勝しました。

――学生の指導はいつから?

 門川クラブに関わり始めたとき、高校でも教えていました。大学のコーチは5年目です。産経(宮崎産業経営大学)の子が関わるようになったのは4年前かな。1年からやってた子が卒業したんで。

――2006年は、県2部リーグで下のほうでしたよね。

 3年前は7位か8位でしたね。

――大学生が入るようになった理由は?

 出場機会を増やしたり、NIFS(OSUMI NIFS UNITED FC)のように卒業した子が入ったりとか。学校が決めたクラブではなかったから、入るのは4人とかで、チームの練習は公園で10人でやったりとか。昔は、スーパーで投光機を借りて練習してました。

――2007年から『Miyazaki Sportsman United FC』、略して『MSU.FC』になり、成績が上向くようになりました。何が変わったんですか?

 一番は、練習できる環境が整って、自分が見る時間が増えて、戦術が浸透したことですね。選手は一流じゃないけど、意識が変わりました。

――学生の比率が増えましたよね。

 OBとか、教えた子たちも多かったです。(サン宮崎FCからOBの)有木(済喜)が入ったのも、その年です。おかげで、自分のやりたいスタイルが確立できました。今いる子は有名なとこ出身ではないですけど、一生懸命やればJFLの経験者がいるチームにも勝てる、ちゃんとやれば結果が出ることを教えたかったんです。勝たせたい一心でやってきました。

――今の登録選手は何人ですか?

 選手は25人ぐらい。昨年から残ってるのが15人ぐらいで、あとは新しい子が9人ですね。産経の現役やOBが中心で、社会人の選手もいます。練習は、大学は毎日ですけど、空いたときにそいつらも来ます。

――練習のペースは週にどれぐらい?

 週5、6日ですね。

――今年は、Jリーグとの練習試合など2月から活発に実戦を重ねていましたけど、何試合ぐらいやりましたか?

 練習試合は20ぐらいですね。昨年までは大学でしか組めなかったんですけど、今年は社会人のチーム(MSU.FC)でJともやれました。昨年のチームをベースに試合で底上げしてるから、状態はいいです。ポテンシャルはまだまだの子ばかりですけど。

――監督が柳田さんで、他のスタッフはどういう人たちが?

 大学の教授が顧問で、深江がフットサルとかのコーチ、福留が広報とマネージャー、一昨年までキーパーしてたのがGKコーチで、スタッフは常時4人。あとは、特別アドバイザーが(産経大監督の)笛です。


Kyuリーグ初挑戦は失敗

――昨年は社会人選手権の県予選で優勝して、九州大会ではホンダロックSCと対戦して、県リーグも昇格1年目で優勝しました。

 継続的な練習と強化ができたのが大きかったですね。

――そして、八代の九州各県リーグ決勝大会に進出。

 トレーニングマッチとかをこなして、HOYO(HOYO Atletico ELAN大分)とかNIFSとかとやらせてもらえて……。

――選手も補強して。

 はい。

――ところが、初戦負け。

 前々から言ってたんですけど、対応力が無かった。いつも思うのは、社会人とやるとき、若い奴は戸惑うことがあるんです。中盤が間延びして、どうしたらいいかわからないとか。社会人なら10分でリサーチするけど、ウチは45分かかったり。アンラッキーもあって、開始10分で3点取られました。勝てそうな感じはあったんですよ。でも、経験の差が出たし、個人の力が弱かった。点数以外では負けてなかったと思います。でも、サッカーの面白いところで、たとえばポゼッションが上でも、勝てるわけではないですから。

――県リーグの試合でも、リードしているのにミスしたり、「あれ?」と思うことはありましたね。

 個人のミスは多かったですね。県リーグは5人代えられますけど、(5人も代えたら)チームが違ってきますし。まあ、でも、高い代償は得ました。選手は控え室で泣いてました。だから、「悔しいんだな」と思いました。一筋縄ではいかないですよ。終わったことは、しょうがないです。次にどう活かすか。選手を信じます。あんな経験、金で買えないですけど、ほんと嫌でした。ホテルに帰ったとき、「誕生日を祝えなくて、すみません」とか言われて……。今年、活きると思います。
 (2005年の天皇杯県予選で)サン宮(サン宮崎FC)と大学がやって、前半を0-1でリードされたときに、笛が「おまえら、ここで負けんのか」と。「ここで負けねぇだろ。あいつら以上に走って練習したのに、負けるわけない。自分たちを信じろ」と言ったことが、心に残ってます。

――改めて振り返ると、どうですか?

 あそこで九州リーグに上がっても、客観的にハードが全然整ってなかったんで。いい具合に出直し期間ができたと思ってます。プロフェみたいに、チームが一人歩きしても上手くいかないですし。今年は、NPOとかサポーターとか女子とか、見直しながらやることはいっぱいあります。


プロフェソールの残党

――プロフェソール宮崎の話が聞きたいんですけど、プロフェは何がダメだったんですか?

 バブルみたいな感じでした。デメリットの部分が。トップに立ってるのが30代前半の若い人で、イケイケドンドンで何とかなるだろうって感じで運営して。(選手などの)ソフトはそろってたけど、(クラブの基盤などの)ハードはそろってなかったですね。あとは、会社と同じで、管理がずさんだと潰れます。それは、目に見えてわかりました。
 自分が辞めたきっかけは、自分は昼に仕事して、若いのはバイトして、夜に練習していたんです。それが途中で、昼に練習したいから、仕事を辞めて契約してくれと。それが、契約というよりは、一方的な拘束で。自分の契約はここまで面倒見るから、譲歩してくれと。歩み寄りが必要なのに、いきなりソフトを大きくしようとしてて。人間は生活があるのにですよ。行き当たりばったりに感じられました。しっかりした運営だったら、こうはならなかったです。企業努力してんのかと。
 プロフェは、選手はいい奴ばかりでした。サッカーに関しては“やる人間”ばかりだったです。信じてやり続けていました。自分たちのプライドをかけて、やっていました。

――では、プロフェの功績というか、良かったことは?

 JFLまで行きましたから。企業チームとは違う道筋を、ジャングルに行くのと同じような道筋を作りましたから。どうすれば行けるのか、いいことも悪いことも含めてわかったのは良かったと思います。「こういうふうに行くんだな」というのは教えてもらいました。

――柳田さんは“プロフェソールの残党”と、自ら言われてますけど。

 早めに辞めたんですけど、全然隠さないです。上手い人とやれた部分もあるし、マイナスよりはプラスになったことのほうがありました。「ああいうふうにはなりたくない」という意味でも。
 名前を出すと過敏になる人が多いですけど、「あそこにいたんだから、次は失敗しないだろ」と思われたい。ある旅行代理店でプロフェのことを言われたんですけど、(柳田さんの記事が掲載された)『週刊サッカーダイジェスト』の記事を見てもらって、同じ轍は踏まないでということで信用してもらいました。笛とかは、マイナスのほうが多いかもしれないですけど。
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