照屋の宮崎スポーツblog(略称:てるスポ)
宮崎市在住のフリーライター・照屋による、宮崎県のスポーツサイト。自分の本音を添えて、リアルに伝えます。
プロフィール

照屋もりよし

Author:照屋もりよし
宮崎市在住のフリーライター。高校までサッカー、10年前までムエタイをやっていた。最近は四股50回が日課。

メール&ストックフォト

メールフォーム
写真素材 PIXTA

FC2カウンター

since 2006.1.28

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

記事を読んだらクリック♪

スポンサー&サポーター

なかまち薬局
詳しくはクリック

カテゴリー

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

CalendArchive

天気予報


-天気予報コム- -FC2-

リンク

このブログをリンクに追加する

ブログ内検索

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

RSSフィード

情熱の特撮系サポーター・レイさん (1)
 エストレーラ宮崎FCの試合に行くと、1人で太鼓を叩いて応援している男性がいる。特撮の主題歌をアレンジした選手個人の応援歌でチームを盛り立てる彼――レイさんは、チームが『プロフェソール宮崎』と名乗っていた頃からのサポーターだ。県リーグが開幕する前、レイさんにインタビューを行った。レイさんが語ること10時間。彼の口から出たのは1人の男のサッカー人生、そして彼が応援し続けたチームの歴史だった。第1回はサッカーとの出会いからサッカーチームの応援にのめり込むまで。
レイさん

 
小学校と中学校はサッカー部

――レイさんのサッカーとの出会いは?

 小学校4年生のとき。近所の不動産屋の社長が宮崎サッカースポーツ少年団のコーチだったの。それが縁で入らせていただきました。両親が「入れ」と言って。サッカーのルールとか全然知らなかった。

――ポジションは?

 ディフェンダー。システムは今と違って2-3-5。

――超攻撃的(苦笑)

 それの左ディフェンダーだった。身長は並んだら後ろのほうだったしね。足が速くないという弱点があったから控えにまわされることもあったけど、キック力を見込まれて先発に戻ったりとかしたよ。

――楽しかったですか?

 チームが強くなったら楽しくなったね。今まで勝てなかったチームに勝てるようになってから。

――他に何かやってました?

 学校を出るまでサッカーと剣道を。剣道は喘息にいいということだったんだけど、サッカー1本になった。で、あるとき、大塚小に日産自動車(現:横浜Fマリノス)の選手とか来てくれたの。

――木村和司?

 来たんですよ、木村和司が! Jリーグで木村さんを見たとき、「頑張ってるな~」と思ったよ。

――中学は?

 サッカー部に入ったんだけど、途中で周りとウマが合わなくなってやめちゃった。中2の終わりまでやって、中3からは柔道。柔道部に入ったのは、プロレスが好きだったから。昼休みにプロレスの真似事をよくやってた。

――自分もやってましたよ、プロレスごっこ。


初めての地元チーム・柏レイソル

――サッカーとの再会は?

 まず、東京の建設会社に就職した。それから(1993年に)Jリーグが始まった。ウチの会社の財閥の関係で…。

――レッズ?

 そう、最初は浦和レッズを応援していたの。ただ、熱心ではなくて、なんとなく応援していたという感じ。テレビ中継だけ見れば十分だった。でも、当時のレッズというのは……まあ、ああいう状態だったから、愛想が着いちゃって。

――あの頃のレッズは大変でしたもんね。

 レッズへの熱が冷めたというか。そんなある日。寮が千葉県の流山市だったの。

――おお、流山ですか。

 流山といえば千葉の北で、柏が隣。買い物とか食事とかは柏だった。いいところだよ。流山のスーパーも行ってたんだけど、至るところに『柏レイソルを応援しよう』というポスターが貼ってあった。当時はJFL。自分の住民票がある街のすぐ近くにこんなチームがあるのかと興味が沸いたよ。試合は行けなかったけど、好きになっていったね。

――へぇ~。

 でも、JFLで5位に終わって、Jリーグに昇格したのはジュビロ磐田とベルマーレ平塚(現:湘南ベルマーレ)だった。それからもレイソルを応援していって、次の年はテレビのスポーツニュースとかでもJFLだったらセレッソ大阪かレイソルの話題しかなかった。

――セレッソかぁ。自分が最初に就職したゲーム会社がセレッソのスポンサーだったんですよ。全然、応援に行かなかったですけど。

 レイソルは苦しい戦いが続いていたけど、大事な場面でセレッソに勝って昇格をグッと近づけて、2位以内が秋に確定。そのときは、工事現場の宿舎で大喜びしたなぁ。それから、「さあ、レイソルをJで応援しよう」と思った矢先に東京に引っ越すことになってしまった。

――柏が地元ではなくなった、と。

 流山がご当地じゃなくなったし、かといって東京ガス(現:FC東京)とか当時の稲城市にあったヴェルディ川崎(現:東京ヴェルディ1969)を応援する気にはなれなかった。自分の中でサッカーに対する興味が若干薄らいだ時期だね。そして、その年の末に会社を辞めて、兵庫県に引っ越した。


応援する素晴らしさを教えてくれたヴィッセル神戸

――兵庫ですか。自分も学生時代は神戸でしたからね。

 (1996年から)兵庫での生活が始まって、神戸の三宮とか元町を歩いていたら『ヴィッセル神戸を応援しよう』というチラシとポスターが目に入った。

――今度はヴィッセル。

 最初はサンテレビの中継を見てるばかりだった。

――やってたんですか、サンテレビで。タイガースだけじゃなかったんですね(苦笑) Jリーグだったんですか?

 いや、JFL。Jリーグに上がるかどうかという年だったんで。神戸は盛り上がったよ。

――自分、全然知らなかったです(汗)。

 そして、そんなある日、僕はユニバー記念競技場に足を運んだの。そのときのカードは『ヴィッセル神戸vs東京ガス』。僕は元・小金井市民だったから東京ガスを応援しようと思って、スタジアムの中に入って観客席にたどり着いたら、ヴィッセルサポであふれたゴール裏だった。

――席を間違えてしまった、と。

 前半の途中だったね。JFLについて詳しくはなかったけど、東京ガスが強いチームだというのは知っていた。その強い東京ガスにヴィッセルが勝てるのかなと感じながら試合を見ていたよ。東京ガスは当時の“キング・オブ・トーキョー”のアマラオが執拗にゴールを狙っていた。でも、ヴィッセルはディフェンスの和田(昌裕)とかキーパーの石末(龍治)が必死にセーブして、ゴールを割らせなかった。当時のヴィッセルのメンバーというのが、エースストライカーのジアード(トレムカニ・アーメド・ジアード)、ミッドフィルダーのラウドルップ(ミカエル・ラウドルップ)。

――ラウドルップがいたんですか!? ユベントスでプラティニと一緒にプレーしていた、あのラウドルップが。トヨタカップをテレビで見ましたよ。

 レアル・マドリードから移籍したんだよ。その日に限っていなかったけど。永島さん(永島昭浩)が孤軍奮闘していた。

――スポーツキャスターのあの人ですね。

 このままスコアレスになるかと思ったんだけど、後半にトーマス・ビッケル(元スイス代表)という選手がゴールを決めて先制した。これをみんなで守りきって試合終了。順位が3位から2位に上がって、Jリーグを狙える圏内に入ったんだ。そして、リーグの最終節。ユニバでNTT関東(現:大宮アルディージャ)と対戦して3-1で勝って、Jリーグ昇格を決定づけた。

――レイさんはどうだったんですか?

 東京ガス戦のハーフタイムにヴィッセルのサポリーダーから「離れて座ってますけど、一丸になって応援しましょう」という呼び掛けがあったの。周りは知らない人ばっかりだったけど気持ちが一つになって、一体感というものを初めて感じて「素晴らしいな」と思った。スタジアムで応援することについて。

――じゃあ、これが原点?

 そうだね。そして、最後の試合。NTT関東に勝ったとき、泣きそうになったよ。J昇格が決まって。それまでは遠巻きに見ていた選手がヒーローに見えた。試合が終わって選手たちが観客席の周りをハイタッチしながら一周したんだけど、手を伸ばしたら和田さんとハイタッチできてうれしかった。

――それはうれしいでしょう。

 その年の天皇杯も2回戦、ヴィッセル神戸vs三菱自動車水島を姫路で見た。結果は4-2でヴィッセルの勝ち。水島が頑張った印象もあるけど、神戸はベストメンバーだったからね。水島に敬意を感じたよ。

――当時の水島は地域リーグ?

 そう。じつは前の日の1回戦、セントラル神戸(現:バンディオンセ神戸)の試合を神戸ウイングスタジアムで見たんだよ。相手は鳥栖フューチャーズ(現:サガン鳥栖)。

――なんと。

 その年限りのフューチャーズだった。スコアは0-3で鳥栖の勝ち。


宮崎から応援できた大分トリニータ

――その後は?

 僕は次の年に宮崎に帰ってきた。1998年かな? 兵庫や東京に住んでる頃は、プロ野球でもサッカーでも好きなチームの応援に気軽に行くことができた。宮崎で地元のチームとして好きになれて、よく応援に行けるチームはないかと探したら、大分トリニティがあった。

――現在の大分トリニータですね。

 佐伯でよく試合をしていたんだよ。佐伯なら行けると思って。トリニティvsブランメル仙台(現:ベガルタ仙台)を観に行ったのが、大分の応援の始まり。大分サポの人に「仲間に入れてもらえませんか」と言ったら、「どうぞどうぞ」と。一番お世話になったのが女性のNさん。今でもその人のことは名前じゃなくて「団長」と呼んでます。ドラマでやるなら山下久美子で。

――(笑)

 そして、大分を応援するうちに自分の中で世間への反発心が芽生えたの。

――反発心ですか。

 フィットネスクラブに通ってて、仲間たちに「休みの日は大分の応援をしてるよ」と言ったら、「物好きだなぁ」という反応をされて。

――他県のチームを応援することは珍しいことじゃないですけどね。野球でもサッカーでも。

 それで、『宮崎は陸の孤島』という言い方があるでしょ? この言葉に反発するようになって。宮崎の人が平気で受け入れてるように感じて、反発心を覚えた。だって、鹿児島や熊本は同じ南九州、大分は同じ東九州だよ。そういう意識を持つようになった。僕がやっていることは、「東九州の人間が東九州の応援をしているんだ」と。そう思うようになって、ますます大分にのめり込んでいった。

――ふむふむ。

 300km離れた福岡のプロ野球チームを応援して、200km離れた大分のサッカーチームを応援するのがなぜ不自然なんだと。

――確かに(苦笑)

 時は流れて1999年。JリーグがJ1(16チーム)とJ2(10チーム)の二部制になり、大分はJ2に上がった。でも、水戸ホーリーホックの昇格が認められなかった。横浜FCも。大分は石崎信弘が監督になり、メンバーも塩川(岳人)とかモンテディオ山形からけっこう入ってきて、神戸からは神野(卓哉)とかが加入。自分が最初に大分で観た試合で川崎フロンターレに勝った。「あれ? 今年はなんか違うな」と思ったよ。それで、ナビスコ杯が始まって、1回戦でベルマーレに勝ち、2回戦の最初のホームでレッズと対戦したの。

――因縁のレッズ(苦笑)

 福田(正博)とか岡野(雅行)とかいたよ。でも、大分はキーパーの小山(健二)を始めみんな頑張り、浦和の得点をゼロに抑えた。そして、塩川のヘディングで獲った1点を守りきって勝った。試合が終わった後にガッツポーズを取りながら、知らん間に涙を流していたよ。

――サッカーで流した初めての涙ですね。

 アウェーで2点差で負けたけど。リーグ戦は川崎が優勝。J1昇格のもう1枠を最終節まで2位の大分、3位のFC東京が争っていた。勝ち点差は1つ。東京はアルビレックス新潟に1-0で勝った。でも、大分は山形と引き分け。3位でJ1に上がれなかった。次の年も優勝がコンサドーレ札幌で、2位は最終節までもつれて浦和だった。

――2年続けて、あと一歩でJ1昇格を逃してしまった、と。

 リーグ戦が終わって、天皇杯が始まった。大分の2回戦は延岡の西階陸上競技場。トリニータが宮崎でやってくれる喜びは大きく、とてもうれしかったよ。結果は上田ジェンシャンに7-0で勝ち。そのとき、観客席の横断幕のなかで『オオイタノホームゲームヲノベオカデ』(大分のホームゲームを延岡で)というのが目に入ったんだ。

――ほぉ~。

 うれしい応援幕だと思ったよ。

≪つづく≫ (PC版) (携帯版)
この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://teruspo.blog48.fc2.com/tb.php/982-aa53997f
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)